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WienLetter〜 ウィーン便り<5>より

モーツァルト考

 ウィーン名物にモーツァルトクーゲルンというお菓子があります。クーゲルというのは、ドイツ語で「球」という意味で、へーゼルナッツとマジパンの2つのクリームをダークチョコレートでコーティングした、名前のとおり、少し大きい丸い形のチョコレートを、モーツァルトの肖像が描かれた金色の包み紙で1つずつ包まれたチョコレート菓子です。

 ウィーンのお土産といったらまずこのチョコレートを思いつくほど、ウィーンのポピュラーなお土産ナンバーワン、ウィーンに一度でも来たことのことのある人なら、必ず目にしたことがあるのではないでしょうか。鎌倉のお土産といったら鳩サブレー、といったところ、誰が何といおうと観光地ウィーンの名物の王道です。

 といっても、本来はモーツァルトの故郷ザルツブルグのものだそうで、ザルツブルグに行くと、こっちが本物よと元祖モーツァルトクーゲルン(包装と形が少し違います)を食べさせてくれますが、このお菓子を発明したフェルスト氏という人が特許をとらなかったせいで、類似品が大量発生、ウィーンで一番よく売られているものは偽物だとか、あの会社のは少しチョコレートが多いとか、いろいろといわれているようです。私としては味にそれほど違いがあるようには思えませんが……。

 紹介しておいてケチをつけることもないのですが、私見で言わせてもらうなら、私はこのチョコレートを一度もおいしいと思ったことがなく、このチョコレートの中に入っているマジパンという存在が(アーモンドをペースト状にして砂糖とまぜたもの)好きではなく、そのなんとも気の抜けた名前の語感といい、あいまいな味なようで、後に残る食感といい、日本であまり食べられていないように、日本人の口には合わない食べ物だ………と勝手に思っているので、自分から好んで食べることはめったにありません。ただ、鳩サブレ−が鳩サブレーでしかないように(私は鳩サブレーは大好きですが!)、モーツァルトクーゲルンもモーツァルトクーゲルンでしかありえないその存在感には、敬意を払っているし、私がいくらケチをつけようとウィーン名物であることに変わりはないので、ウィーンに来たら一度は味わうする価値があるのでは……と思っています。

 味はともかく、このお菓子はウィーンの人たちにとても愛されているようで、スーパーのお菓子売り場には絶対に置いてあるし、何かというと、このモーツァルトクーゲルンを薦められることがよくあります。ですから好き嫌いにかかわらず、このお菓子を食べる場面に出くわす機会が多いのですが、前述したようにこのお菓子は1つずつモーツァルトの肖像が描かれた包み紙の中に入っており、1つ食べるたびに、モーツァルトの顔を一瞥しなければならないのです。2つ食べると2人のモーツァルトと、その包み紙がゴミ箱に消えるまで向き合うことになります。そのモーツァルトの顔を見ながら、最近ふと思ったのは、なんてモーツァルトという人は個性のない顔をしていたんだろう……ということです。

 描かれているのは、モーツァルトの肖像面の中でたぶん一番有名であろう、少し斜め前から顔を正面にとらえたもの、今から200年前に描かれた肖像画を見て、個性のない顔だと決めてしまうのは、もしかしたら画家の腕が悪かったのかもしれないし、モーツァルト、もしくは誰かの意見で腕曲して描かれた可能性もあるし、妥当な意見でないことはわかるのですが、肖像画というのは、得てしてその絵からその描かれている人がどんな人で、どんな生き方をしていたのか、当時の面影を髣髴とさせる場合が多いのに、このモーツァルトの絵を見て、彼がいったいどんな人だったのか知りうる手がかりが、絵のどこにも隠されていないように私には思えます。たとえば、ベートーヴェンやバッハのよく知られている肖像画を思い浮かべると、その絵からベートーヴェンが情熱的であったであろうこと、バッハが厳格に自分の音楽の仕事にプライドを持っていたであろうこと、彼らの音楽をそれなりに想像することができるし、ああこれはベートーヴェン、もしくはバッハなんだとそのイメージと肖像を重ねることができます。もちろんそれは彼らの人生のバック・グラウンドについての知識をそれなりに持っているからいえることであるのかもしれないけれど、それならばモーツァルトの肖像を見て、彼が美しいメロディーをたくさん残したこと、または少々享楽家であったことが、なるほど、そうだったのかな……とイメージを重ね合わせることができてもよさそうなものなのに、あの少々すましたような顔を見ていても、これがモーツァルトであることの根拠、その人間性とか音楽をうかがうことのできる要素、モーツァルトらしさがあまりにも(なんだか)少ないような気がするのです。

 天才モーツァルト、その音楽は美しくて優しい………昨年は生誕250年ということもあって、ここウィーンでもモーツァルトに関する様々なイベントがありました。さすが本場、実にたくさんの演奏会があり、モーツァルト週間、というものもあって、彼の手紙を読みながらその時期に書かれた曲を演奏するとか、彼の音楽が及ぼした影響を検討する会とか、またはその曲を現代風に様々にアレンジしてクラシックというジャンルを超えたコンサート企画とか、そのほかにも個人の演奏会においても、ほんとうにいろいろな角度からもう一度モーツァルトの音楽を楽しもうという皆の気持ちが現われるような企画が目白押しで、やはりモーツァルトはオーストリアの人にとっては国の誇りなんだ……と認識させられた一年だったように思います。私も何を隠そう、留学先をウィーンに決めたのはモーツァルトが好きだったから……というのが大きな理由になったほど昔から変わらぬモーツァルト・ファンの一人で、昨年は大いに楽しませてもらい、やはりモーツァルトはすごい!いまだにこんなに人気者なんて!とファンとしては大いに満足しており、ですからモーツァルトに関してケチをつけるつもりなど毛頭なく、むしろこの原稿を書いていてもなんだか好きな人について話すような、なんだか面映いような心持ちがしています……。

 ともかくなにがどうであろうとモーツァルトはすごいんだ!というのが、私のモーツァルトに対する唯一絶対の意見で、もうすでに彼の音楽についてたくさんのことが語られ、たくさんの賛辞が贈られている中で、私がそれ以上になにか言う余地などどこにもない、と思いつつただ一つだけ、私がその肖像画を見ながらその音楽を想ったとき、そのイメージのギャップを感じさせる理由とは、もしかしたらモーツァルトの音楽が美しくて優しい……という認識が少し違っていて、もっと複雑で言葉で表わすことが困難な、たとえばほんとうにつらくて悲しいことは、むしろ陽気にしか伝えられないような、そんな逆説的な要素とか、今、目に見えているものの中に真実など一つもないかもしれない、そんな不安な要素とか、様々な成分を、その美しいといわれているメロディーは含んでいて、そんな不可思議な部分こそあのとらえどころのない肖像画が示すモーツァルトという人、そしてその音楽の象徴なのかもしれない……そんなことを考えながら、もう一度モーッァルトクーゲルンを食べてみたのだけれど、やはりおいしいとは思えず、でもやはりモーツァルトはすごい!と思う気持ちはますます強く、いつの日か、モーツァルトの音楽を素晴らしい演奏で奏でられればいいなと……と夢見ています。