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WienLetter〜 ウィーン便り<3>より

クロアチア旅行記

 突然だけれど、財布を盗まれた。今この原稿をサマーコースが行なわれているクロアチアのコルチュラ島というところで書いているのですが、それはここに来る高速船の中の出来事で、なんとも幸先が良くないというか、またか・・といった思いで、少々げんなりしてしまっています。

 お金を盗られていながら、褒めるのも癪なのですが、クロアチアというところは、とても美しい場所が、たくさんある国です。世界遺産のドゥブロヴニクを始めとする古い街並み、そしてなにより、千以上ある島々を取り囲むアドリア海が本当に素晴らしい。

 宮崎アニメ「紅の豚」の舞台になったところ、紺碧、群青そしてエメラルドグリーンの海の色・・・初めてアドリアの海を見たときその本当の色がはじめてわかった気がしました。海底がすぐそこ、手で触れるのではないかと思われるほど透き通った海面、水、時々思いもよらない速さで泳いでいく小さな魚の群れを目で追いながら、内海のゆったりした波間を、海底にゆれる藻と同じ速度でたゆとう心地よさ、私の筆力が足りず、上手く表現できないのが残念ですが、もし機会があれば、是非一度その美しさを味わってみるのをお薦めします。

 私の今いるコルチュラ島もそんな美しさを充分楽しめる島々の1つ、まだそれほどりソート化されていませんが、それでも私の滞在しているホテルには様々な国から、夏の匂いを味わおうとバカンスに訪れている人たちでいっぱい、夜遅くまで海際で楽しそうに騒いでいる人々の声を聞きつつ、私たち講習生は練習とレッスンに追われています。

 目下私たちの一番の悩みは、どこか練習できる場所はないか、ホテルの中を毎日探し歩かなくてはならないことで、というのも、本当はホテルの部屋で練習してよいはずなのですが、苦情がきてしまい、弾くととなりの部屋の人から怒られてしまうので(こういうトラブルはリゾートで行なわれるコースではつきものですが・・・)しかたなく、昼食の準備をしているホテル内のレストランで「ここで少し弾いてもいいですか?」と海に遊びに行く人たちの好奇の目を一身に浴びながら、コンクールのためのよくわからない新曲を練習したり、庭で弾いてみたり、ありとあらゆる可能性を試しています。

 ただでさえ珍しいアジア人、初めてクロアチアに来たときは、人々が私の顔をまるで奇妙なものを見つけたように立ち止まって見つめ、人によっては顔をのぞきこんで、隣にいる人と互いにひそひそとささやきあっては笑いあったり・・・という行為にとても驚き、困惑しましたが、今ではすっかり慣れて、「日本入だよ」とていねいに教えてあげる余裕もできました。ここの人達もアジア人に慣れてきたというのもあるでしょうが、それでもこのホテルにいるアジア人は私たちコースに来ている日本人数人、いつでも楽器を持ってさまよっている姿は、さぞかし「まじめな日本人」というイメージぴったりに写っているだろうと思います。

 そんな状況ながらも、時々泳いだり、ウィーンでは食べられないシーフードを食べたり、特に心楽しいのは、ホテルが島の中心の旧市街からかなり離れたところにあるので、街とホテルを往復するのにTaxiポートで行き来しなくてはいけないことで、夜、街からホテルまで帰るとき、ボートの上から、徐々に遠ざかる古い街や港に集う船舶の明かりを見るのはまるで映画のワンシーンのよう、ロマンチックな気分に毎晩酔いしれている・・・と言いたいところなのですが、ここで冒頭の財布を盗まれた話に戻るとクロアチアという地は私にとってまさに受難の地、もう今回で3回目のクロアチア滞在となりますが、いつでもなにかしらトラブルにまきこまれなくては気がすまないようで、特に一番最初に来た時の不思議な体験は今でも忘れられません。

 4年ほど前のことで、当時はまだユーゴ内戦の傷跡がところどころに残っており、独立から10年以上経った今でも、街のシステムや様子に、日本人の感覚からするとびっくりしてしまうことがいろいろとありますが、その頃はもっと、道路際に壊れた家が立ち並んでいたり、いつ何時物騒なことが起きてもおかしくない様子でした。

 その時も講習会は今と同じ、クロアチア本土から離れた島のひとつで行なわれていましたが、講習会が終わってウィーンに戻るのに、私だけ飛行機の予約ミスで皆より1日早く島を離れなければならず、ひとりで、朝早く島からクロアチア本土に行くフェリーに乗ることになっていました。

 そのフェリーは、私の泊まっていたアパートやホテルのある島の中心から、山1つ越えた向こう側の岸に着くことになっていて、私は朝の6時頃からその船着場まで行くパスを待っていたのですが、パスがいっこうに来ない。その時私は2、3日前にバナナボートをやって、ものすごい勢いで振り落とされ、ひきずつまわされて、全身鞭打ち状態みたいになっているのがまだ治らず、全身ずきずき、腕を上げるのも、歩くのも一苦労、前の日荷物をつめるのもままならなかったので、ほとんど寝ていない・・・という状能で、思考もほぼ停止中でした。

 それでも、その船に乗れないと飛行機にも遅れてしまう・・・と重たい足をひきずって、バスのインフォメーションセンターらしきところに聞きにいくと、どうやら運転手が寝坊したらしく、今からバスを出すというので、ようやくバスに乗れたのはよかったのですが、30分以上も遅れたのでフェリーの時間に間に合わないかもしれない・・・と思ったらしい運転手は、バスを猛スピードも猛スピード、100キロは余裕で超えていたであろうスピードで山道を走らせ始めたのです。

 山道といっても海岸からせりあがってる山、道の横は断崖絶壁、しかも舗装されていない細いでこぼこ道の、もちろん柵などない絶壁ぎりぎりを、箱根の山もびっくりの狭い間隔で右に左にカーブを繰り返しながら突き進むすさまじさ。そしてあろうことか、そのバスにはドアがなかったのです!もとからなかったのか、外れてしまったのかわかりませんが、全身鞭打ち状能で、睡眠不足の朝早く、100キロ以上のスピードで山道を突進する、その上ドアのないバスのなかで、必死にポールにつかまっていた(いすに座ると、あまりの振動でとばされそうになるのです)あの30分弱。

 想像していただくとわかるかと思いますが、バスは、中央に乗り降りするかなり大きなドアがついているはずのもので、そのドアがないということは、完全にいつでも、バスから放り出されることができるわけで、そして、つかまるポールというのはだいたい、そのドアの前についているわけで、ドアがないためもろに吹き付ける風をうけながらそのポールにつかまっている私は、台風でいつとばされともおかしくない木、のような状態だったわけです。

 目をあけると、怖くてたまらないので、固く目を閉じて、全身の痛みをこらえながら、ポールだけを頼りに、手の感覚がなくなるほどにぎりしめ、たしか乗客は私だけで、機嫌の良い運転手のおっちゃんの鼻歌をききつつ(その、場違いなおっちゃんの、なかなか上手な鼻歌を今でも思い出すことができます)、思考を働かす・・・などまったく論外。曲がり角がくると、顔が赤くなるほど下腹に力をこめるのを繰り返しながら、ひたすら耐え続けたあの経験は、いままで体験したどんなアトラクションよりも怖かったです。

 ようやく、船着場に着いておっちゃんが、ほら、間に合っただろう!・・・と自慢げに私を見やり行ってしまったあとも、しばらく放心状能で、今私がどこでなにをしているのかよく把握できませんでした。その後、なんとか無事フェリーに乗れたとき、どんなにほっとし、涙が出るほどうれしかったか・・・。

 ところが、これで大丈夫・・と胸をなでおろしたのもつかの間、フェリーが空港のある本土の港まで無事ついたのはよかったのですが、それから、ウィーンの家につくまでの道のりの長かったこと、私の受難はまだ終わっていなかったようなのです。(つづく)