WienLetter〜 ウィーン便り<1>より
ウィーンに来て5年
今、私の住んでいるウィーンという街は、冬、ほんとうに寒い。
このほんとうに・・・・・・にどれだけの実感が込められているか、たぶん経験をしたことのない人にはわからないのではないかと思うのですが、この街に住み始めてもうすぐ5年も経とうというのに、いまだにその骨まで凍みこむような鋭い寒さには、驚かされてしまいます。
特に今年は大寒波で、1月には気温がプラスになることがほとんどありませんでした。
最高気温がマイナス9度、ひどい口には、日中でもマイナス20度という、冷凍庫よりも寒いところで、いったいどうやって入が普通に暮らすことができるのだろうか、と、もし私が東京にいたら、きっと、信じられない・・・・・と頭をふって、疑いを持つところだろうと思います。
それは、日本の知り合いと電話で話している時、いまそっちは寒いの?ときかれて、うん。いまマイナス14度・・・・・・などと答えると、一瞬唖然として、いったいマイナス14度というのはどのくらい寒いのだろう・・・・・と想像をめぐらしているのが電話越しにも伝わってきます。
私は5年ほど前にヴァイオリンの勉強をするために、オーストリアはウィーンへ留学してきました。
ちょうど、21世紀が始まった年、なぜウィーンだったかはいまだに自分でもよくわからないのですが、ともかく外国で音楽の勉強をしてみたい、それならモーツァルトが好きだし、生徒にとってくれるという先生もいるし、よし、それならウィーンに行ってみようかな・・・・・・という、今から思えばなんとも頼りない動機と、10代ならではのいさぎよさと無謀さを武器に、日本からも家族からも遠く離れた、ヨーロッパでも東のほうに位置する、そして何百年の歴史を持つこの街で、大学生活の第一歩を踏み出しました。
5年間、ちょうど日本で言う大学生活をまるまるこの地で過ごしたことになりますが、最近ウィーンに留学して良かったことは何かなと考えるとき、よく人にも聞かれますが、良いことというのはなかなか一口には答えられないけれど、ウィーンでしか経験のできなかったことはといわれたら、もちろんほかにもいろいろあるけれども、日本にいたら想像のつかないことの1つとして、このウィーンの寒くて、そしてほとんど太陽の光の射さない暗い冬、と、即座に答えられるような気がします。
ウィーンの寒さ
マイナスというのは、もちろん水が氷になる温度ということで、間違って髪の毛などぬらしたまま外に出てしまうと、五分もしないうちにぱりぱりに凍ってしまい、そのまま放っておくと、髪の毛が途中でぽきっと折れてしまいます。
外出するときは、全身、頭からつま先まで、なるべく露出しているところが少ないように完全防備をするのですが、さすがに、顔全体を強盗犯のように覆面するわけにはいかないので、顔だけは無防備のまま出かけることになります。
外に一歩出て、空気を吸ったとたん、鼻の奥がカキ氷を食べ過ぎたときのようにきーんとして、頭がくらくらし、数分もすると、顔の出っ張っているところ、鼻の頭、頬骨、そして額が焼けるように痛くなってきます。
普段、自分の顔の凹凸など意識したことがないのに、私の顔は典型的なおしゅうゆ顔なのですが、鼻はそれなりに顔の中で一番高くて、頬骨が次、それから額、案外額というものもダメージを受けやすいんだな、それなら、凹凸の激しい現地の人たちはさぞ痛いだろう・・・・あまりに寒いと頭の回転は極端に鈍るようで、もうひたすら寒い・・・・・痛い・・・・・ということで頭がいっぱいになってしまい、今、頭の中をのぞいてみたら、きっと脳みそがすべてシャーベット状なのではないか、とか、防寒用の、耳あてや額を守るヘアバンドのようなものはあるのに、「鼻あて」というものがないのはやはり見た目の問題なのか、それとももっと現実的な問題なのか、とか、太っている人とやせている人では寒さの感じ方がどのくらいちがうのだろうか・・・・・・とか、愚にもつかない、けれどその時には切実な問題を、何度も考えてしまいます。
そういうわけで、そんな寒い時期はなるべく外出せず、暖かい石造りの家の中で、ぬくぬくとしていたいのですが、寒くなるにつれて、コンサートやイベントがどんどん増えてくるので、結局、普段よりも、寒い中を慌ただしくいったりきたりすることになります。
考えてみれば、この冬の時期は、学校や仕事も休みになるし、なにしろ一年のうちの最大行事、クリスマスは冬にあるのだから、イベントが増えるのは当然なのですが、特にクリスマスが近くなると教会でミサのコンサートというのが圧倒的に増えます。
外より寒い教会
この、教会でのコンサート・・・・・というのは筆舌につくしがたいほど寒い。教会は、街のいたるところにあり、どこの教会も、大きくて、存在感があって、有名なところでなくてもそれなりに立派で、さすがキリスト教国だと圧倒させられるのですが、演奏に耳を傾けるという行為に対して、適していないことこの上ありません。
なにしろ教会の中もやたらに広くて、天井が高いので、たとえ足元にお情けのような暖房がついていても、マイナス何度の寒さに対抗できるわけがありません。
外にいるときよりは、雪や風が防げるだけまし・・・・・・という状態で、けれども、外にいるときは、まだ歩いたり、しゃべったり、なにかしら自発的な動作ができるのに対して、コンサートを聴くというのは、ひたすら座っていることしかなく、あとはせいぜい首を引っ込めてなるべくちぢこまっているか、手をこすり合わせることぐらいで、むしろ外にいるときよりも、寒さが体中に浸透してきます。
また、ミサだとか教会音楽というものはやたらに長い。1曲1時間近いプログラムなどざらで、たとえ休憩があっても、暖をとる・・・・・・などということもできず、寒さに弱い私は後半戦になると、手足の感覚がしびれてくること必至です。
寒さで知る音楽
寒いという感覚は私の中で今までただ1種類の漠然としたものでしたが、痛いほどの寒さ、寒さが小さい無数の針のようになって体につき射さっているという感覚を私はウィーンに来て初めて知りました。そして、そのなかで聴く音楽も、寒さと一緒に体中に突き刺さってくる・・・・・・そんな感覚も初めてのことでした。
寒さで凍りそうな、そして研ぎ澄まされた空気の中を通って、高い天井と広い空間の中を何度も何度もこだましながら、合唱の響きが、声の震えが、弦楽器の倍音の震えが、手足の感覚がにぶり、耳だけが働いている、聴くということにだけに神経が集中している自分に対して、音の層が向かってくる、皮膚に食い込むのを感じたとき、まるで、音それ自体が明らかな意思を持って何かを伝えようとしている、私は体が震えて、何かとてつもない大きな波にさらわれて波間をさまよっているような、興奮と、そして、その昔、音楽は賛美から生まれたこと、それはたとえどんなに時が経とうと変わらない音楽の原点であり、真髄であることを思い出させてくれます。
何を賛美しているのか、それは神かもしれないし、人間かもしれないし、正義かもしれない。ミサ曲だからといって神への賛美だと受け取る必要はないと私は思います。
大切なのは、何を賛美しているかではなくて、賛美すべきものがある、この世の中に存在していて、それを賛美したいと思った人たちがいて、そして賛美し続けてきた人たちがいるということ、音楽を奏でるということは、その列に自分も加わろうということなんだな・・・と私は、冬の寒い教会の中でコンサートを聴きながら、ただ演奏する音楽ではなく、私も自分の楽器を通して何か賛美することができたらどんなに素敵だろうと胸の奥が熱くなり、音楽の持つ底知れない魅力の一端に少しだけ触れられたような気がしています。
そんな風に思えるようになったのも、この寒く暗い季節のおかげかなと、やはり寒さは時々耐え難いけれど、ほんの少しだけウィーンの冬に感謝をしたいと思っています。
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