メールマガジンvol.5
2017年11月

<< 前の記事       次の記事>>

この夏、コンサートで久しぶりにパガニーニのカプリス第24番を演奏しました。
イタリアの天才ヴァイオリニストで、そのあまりの超絶技巧の素晴らしさに、
悪魔に魂を売ってその技術を手に入れた、
その真相を確かめに足がついているかどうか見に来る観客が後を絶たず、
区役所に人間証明書を発行してもらったなど様々な逸話を残しているパガニーニですが、
実はマルファン症候群という、関節が異常に曲がるという、要は特異体質だったので
そのような離れ業ができたのではないかともいわれ、
ともかく、その自分の技術を誇示するために作曲された全部で24曲もあるこの練習曲、
特にこの第24番は必ず試験やコンクールの課題曲に選ばれるので音楽学生は絶対に避けて通れない
難関です

24曲の中にはいくら練習しても全く弾けるようにならないものもあり、
自分には才能がないのでは、ヴァイオリンを弾く資格がないのではないかと学生を絶望に追いやる、
太宰治の「人間失格」を読んで自分も生きている資格がないのではないかと思ってしまうような、
赤い表紙が悪魔の書のように恨めしく見える練習曲で、
学生が終わり、ようやく解放されたこの曲たち、その暗黒の歴史を思い出さなくてもいいわけで、
わざわざ自ら好んで演奏しないのが常なのですが、
練習曲最後に君臨するこの第24番、とても素敵なフレーズやリズムがちりばめられていて、
人の演奏を聴くとなんて良い曲だろうと思わず弾きたくなってしまう名曲で
学生時代も遠ざかり、演奏経験も積み、少しは余裕を持って大人の演奏ができるのではないかと
今回再チャレンジに踏み切りました。
その見込みはだいぶ甘く、やっぱり超難問、腕はつり、指はぴくぴく、
練習では動くのにはなぜか本番では思っている場所に到達しない指と格闘、
その悪魔の書っぷりを再認識したのですが、
演奏をしながらこの曲を見事に弾いたロシア人の友人のことを鮮明に思い出しました。

ウィーンに留学してまだ間もないころ、先生に頼まれ、
コンクールを受けにきたロシア人を2週間部屋に同居させることになりました。
体の大きく、むっちりとした色白金髪な女の子で、愛想は良いのだけど、
ほぼロシア語しか話さないので、何を言っているのかよくわからず、
ロシア語でまくし立ててこちらがぽかんとしているとニコニコ笑って、ハグをされて
どうやら彼女的には一件落着という日々、
一番困ったのは、いくら床にマットを敷いて寝ると説明しても聞き入れず、
セミダブルのソファーベッドで裸の彼女と毎日一緒に寝なければならなかったことです。
同居初日、床にマットを敷きはじめた私を呆れたように首をふりながら手を止めさせ、
おもむろに服をすべてぬいでベッドに入り、私の手を引っ張って横に寝かせ、
自分はあっと言う間に眠りに落ちた、彼女の裸と横顔と、体臭はいまだに忘れられません。

そして何より強烈だったのが、毎日朝から晩まで、本当に一日中、
コンクール1次予選課題曲のパガニーニ24番を練習し続けていたことです。
特に高音部早いパッセージの細かい音程を一音ずつ、
イスラム寺院の回廊にこだまするアラーへの呼びかけのように、
ひたすらゆっくり長く際限なく繰り返す練習は、陽気なアモーレの国の曲なはずなのに、
極寒のロシアの大地で、寒さに耐えながらわが身を嘆く女の人の泣き声にしか聞こえず、
これは果たしてふさわしい練習方法で、明るいきらきらした楽曲になりうるのだろうか・・と
ドアを開けると鳴り響くすすり泣きに神経がおかしくなりそうな2週間を過ごし、迎えた1次予選本番、
彼女の演奏は他の出演者をはるかに圧倒して、これぞヴァイオリン、ヴィルトオーゾという、
華やかで輝かしい音を会場いっぱいに響き渡らせました。
特に悲鳴を上げ続けていた高音部が、イタリアの軽やかさは全くないけれど、
シベリアの凍てつく大地に朝の弱い日差しが、水晶のように煌き、踊っているようで、
実際に目の前にちらちらと見える光の粒が
体中を埋め尽くしていくような興奮を感じた5分間に、すべてを許そうと、
新たな音声兵器による拷問のようだった練習も、
朝きゅうくつな思いで目を開けると、目の前をふさぐ大きな胸も、
消毒だといってウォッカでキッチンやトイレをふいてべとべとにしたことも、
ボーイフレンドと電話で大喧嘩をして電話線を引き抜き、
後から修理をしなくてはいけなくなったことも、
そんなことはたいしたことではないと思いました。
そしてあの果てしない練習こそが彼女の指からこの音を作り出したのだと確信し、
未だに練習をしなくてはと思うたび、お経のようにひたすらに続いた彼女の練習が蘇ります。

ロシア語で練習のことを「ズニマーツ」といいます。
ドイツ語では「ウーベン」英語では「プラクティス」
韓国語だと「ヨンスプ」日本語だと「練習」、
「ウーベン」と言われると、気乗りがしなくとも、しょうがない
何事か生み出すためには多少の苦労も必要、時間だしやるか!という気になるし、
「練習」もああやらなくてはいけないな、続けることが必要と諭されているような気持になります。
「プラクティス」になると、この語源はラテン語にあるようで、
同じラテン語族のイタリア語やフランス語も「プラティカ」「プラティクー」と、
なんだかずいぶん軽くなり、お菓子の名前でもいいのではないかと、ちょっと気軽にやってみますかという
雰囲気で、イギリス人を始め、ラテン系の人たちが練習に熱心ではないのはこの言葉のせいではないかと
思ってしまいます。
アジアの音楽留学生でも圧倒的多数を占める韓国人は、どこにいてもとりあえず練習、ヴァイオリンを
構えている率が一番高く、これはヨンスプというおつまみのナッツのように、とりあえず口にほおりこんでおこう、
練習しておこうという響きのおかげなのかもしれません。
そしてダントツにやらねばならぬ、何が起ころうとやらねばならぬという気持ちにさせるのは、
ロシア語の「ズニマーツ」です。雨が降ろうと槍が降ろうと我はズニマーツと
気概も甚だしく、ロシア軍隊の行進の軍靴の音が聞こえるようで、
私は、疲労困憊していてもどうしても練習しなくてはいけないとき、
ズニマーツ、ズニマーツと唱えることにしています。

と、この話をすると、日本人はそうかも!と笑ってくれるのですが、
外人はそういわれれば確かにズニマーツの響きは強いかもしれないけど、まあロシア語だからね・・
とあまり賛同が得られないことが多いのは、
外国語にはオトマノペ(擬音語)が少ないからではないかと推察しています。
日本語で例えば雨の降り方も、しとしと、ざーざー、ぽつぽつ、ぱらぱら・・とその様子を音で表現しようと
しますが、他の言語だと降り方によって単語や動詞が変わることはあっても、
音で表現、擬態をすることは少ないようで、
日本語はオトマノペから発達した言葉とのこと、
例えば、動物の鳴き声でもバフバフ(犬)、ミャオン(猫)−英語)よりも
ワンワン、ニャーニャーの方が近いような感じがしますし、
日本人のほうが言葉の語感に敏感のようです。
演奏でも、もっとしっとり弾いてね・・というのをモイスチャーでもウェットでもなくて、
このちょっと切なさも加えてというのをどう説明したらよいのかもどかしい気持ちになり、
日本語というのはなんと感覚的な言葉なのだろうと感じます。

パガニーニの彼女は無事1次予選を通過し、二次予選に進んだのですが、
2次予選の曲はまったくさらっていなかったので、ものの見事に玉砕、
世界一悪口の数が多いというロシア語で、悪態をつきながら、
罠にかかってしまったネズミのような気分にさせる強力なハグを残して、ロシアに帰っていったのですが、
1次のパガニーニばかり練習するのではなく、他の課題曲もバランスよくさらえば、
モスクワ音楽院代表としてもっと素晴らしい結果を残せただろうし、
お金のない居候らしく、分別をわきまえもう少し同居人の言うことに耳を傾けて礼儀正しく
などという考えは、ズニマーツの国の人には通用しないだろうなと漠然と納得し、
同じ言葉を話さないということは、同じ感覚を持っていないかもしれないのだとその時学びました。

先日ノーベル賞を受賞したカズオ・イシグロが昔インタビューで、
自分は日本人の両親を持つけれど、日本語がしゃべれないから日本人の本質を知ることができないと
話していましたが、ロンドン近郊の本のフェスティバルでの彼の丁寧に美しく英語を話すおちついた様子は、
イギリス人の文学者の様子が現れていて、ああ確かにこの人は日本人ではないのだなと強く感じたことを
覚えています。
いまだ耳に鮮明に残るロシア人のパガニーニのつららのように張りつめた音色と、
ロシア語がまくしたてられる響きを彷彿としながら、
言葉と人とそのアイデンティティーは思うよりもずっと強く密接に関係しているのだろうと実感しています。