Programnote 2017

- - 加納伊都ヴァイオリンリサイタル - -

F.クライスラー 美しきロスマリン
19世紀末から20世紀にかけて活躍したオーストリア出身の世界的ヴァイオリニストで、また数多くのヴァイオリンのための魅力的な商品を作曲F.クライスラー(1875-1962)によるウィーン風ワルツ様式の作品。ロスマリンとは、ローズマリーの花のことだが、愛や貞節を象徴し、愛らしい女性の愛称でもある。
W.A.モーツァルト ヴァイオリンソナタ 第21番 ホ短調 K.304
第1楽章 1st Movement : Allegro (速く)
第2楽章 2nd Movement : Tempo di minuetto(メヌエットのテンポで)

天才音楽家として知られるオーストリアの作曲家ヴォルフガング(狼の道の意)アマデウス(上に愛された者の意)モーツァルト(1756-1791)が1778年22歳の時、マンハイム(南ドイツ)-パリ旅行中に作曲され、プファルツ選帝晄候妃に献呈された、全部で7曲からなる通称「マンハイムソナタ」の第4番目のソナタ。唯一の短調のヴァイオリンソナタであり、ホ短調というモーツァルトにとって非常にめずらしい調で書かれた特異な作品である。現在ではヴァイオリンソナタと呼ばれるが、もともとはヴァイオリンとピアノのためのソナタであり、ヴァイオリンとピアノが同等にメロディーを奏でる曲を構成する。

- この曲が書かれた年の夏にモーツァルトは最愛の母をなくしているため、このソナタは同時期にパリにて作曲されたやはり短調のピアノソナタとともにその死と結び付けて語られることが多く、熱烈なモーツァルトファンでヴァイオリン演奏が趣味だった、かのアインシュタインも「感情の最も深い奥底から取り出されたもので、もはや単に交替や対話に終始するのではなく、劇的なものに触れており、やがてベートーヴェンが開くにいたる、あの不気味な戸口をたたいている。」と評しています。確かに1楽章の冒頭、哀愁漂うユニゾンに始まり、曲全体が何かを嘆くような切なく、張りつめたメロディーに包まれていて、また、このマンハイム旅行はモーツァルトが初めて教育パパであった父レオポルドの手を離れて行った旅行だったものの、父と違い世渡りがあまり上手でなかったモーツァルトの就職活動は失敗に終わり、マンハイムでは苦い失恋を経験と、青年モーツァルトの失意がうかがえる曲想です。そしてそんな悲劇性を持ちながらも、どんな時でも、隣の部屋で妻が出産している際も、極端な貧困、孤独、病気の時も、音楽を書き続けることに無情の喜びと満足を味わうことができたというモーツァルトのその音楽の真髄は、何者にもとらわれない自由で楽しい旋律なのだと思い起こさせてくれる曲です。
L.ペートーヴェン ヴァイオリンソナタ 第8番 ト長調 Op30-3
第1楽章 1st Movement : Allegro assai (極めて早く)
第2楽章 2nd Movement : Tempo di minuetto, ma molto moderato e graziozo
                 (メヌエットのテンポで、気品をもって適度な速さで)
第3楽章 3rd Movement : Allegro Vivace (生き生きと速く)
「楽聖」と呼ばれるドイツの偉大なる作曲家ルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)がウィーンに移住後の1802年頃(32歳)、ロシア皇帝アレキサンダー2世に捧げるために作曲され、アレキサンダーソナタと呼ばれる3曲からなるヴァイオリンソナタの第3曲にあたる。当時ウィーン郊外の田園風景をモチーフに作曲することを好んでいたベートーヴェン(数年後に交響曲「田園」を作曲)の、他2曲はしっかりと構成されているのに比べて、牧歌的で軽快な曲調に重点がおかれた作品である。

- 1802年といえば、20代の後半より始まった難聴が悪化をたどるばかりで、もはや治る見込みがないと絶望し、自殺を考えた、有名な「ハイリンゲンシュタットの遺書」が書かれた年です。この遺書が書かれた、そしてこのソナタが作曲されたハイリゲンシュタットはウィーン郊外の緑豊かな住宅地で、引っ越し魔で70回以上引っ越しを繰り返したベートーヴェンはこの小さなエリアでも何度も家を変え、そのいくつかの家は未だに現存しており、またベートーヴェンの散歩道と言われる小道も残っていて、ウィーンに留学したばかりの頃このエリアに下宿していた私はよくその家の前や散歩道を通っていました。当時あまりベートーヴェンが好きでなく、また大々的に案内されているわけでもないので、日本からの客人に教えてもらうまでその存在を知らず、知ってからもなるほど・・と思っただけ、今にして思えば、一日3回は散歩に出かけたという、ベートーヴェンの様子に思いを馳せ、その悲痛な気持ちを推し量りながら小道を歩いてみるなど、もう少し感動をもって過ごせば良かったと悔やまれますが、何しろ留学したてで、日々を送ることに精一杯だった私のその頃の記憶・・
その家の一軒の近くにある、ホイリゲという、出来立てのワインと家庭料理を出してくれる居酒屋風のお店のジャガイモの酢漬けサラダが美味しくて大好きだったこと、その店の主人夫婦が二人して丸々と太っていて、狭い店内のテーブルの脇を通るとき必ず何かひっかけて落とすので、脚がお皿を高く上げて避けなければならないのだけれど、その二人は実は駆け落ちをしたのだと頬を染めて話していた様子、小道のそばの教会の屋根に鳥が巣作りをしていて、神父とともに雨よけの屋根を補強し、その雛の巣立ちを見届けたことなどが、この曲を弾くとよみがえります。
小柄でがっしりとした体格、荒々しくエネルギッシュな目が印象的で、けれど動作はぎこちなく家中のどんなものにもぶつかっていて、傷は作らずにはひげがそれなかったほど不器用、散歩中、いつも考え込んでは身振りを交えながら鼻歌を歌い、アイデアが浮かぶと立ち止まってはポケットのスケッチ帳に書き込んでいたというベートーヴェンの、耳が聞こえないという音楽家としては致命的な疾患に見舞われながらもひたすら音楽を生み出し、ベートーヴェンは私しかいないのだ!(パトロンへの手紙より)と声高に自らの存在を主張し続けたその情熱が、こののびのびと明るい曲の中にも垣間見える気がしています。
K. シマノフスキー 神話―3つの詩 Op.30より
第1曲「アレトゥサの泉」 1. La Fontaine d'Arethuse (The Fountain of Arethusa)
第2曲「ナルシス」 2. Narcisse (Narcissus)
ショパン、ヴィエニアフスキーに続くポーランドを代表する作曲家カロル・シマノフスキー(1882-1937)はショパンと同じくワルシャワ音楽院を卒業後ベルリンに留学、ドイツ後期ロマン派の影響を受けた後、スクリャービンなどロシア国民楽派、またドビュッシーやラヴェルなどの印象主義を取り入れ、独自の作風を確立した。作品は主に3つの時期に分けられ、神話はその第2期、第1次世界大戦の始まった1915年に作曲された。1914年までウィーンに居を構えたシマノフスキーはイタリア、来たアフリカなど各地に旅し、古代、アラブ、初期キリスト文化に直接触れ大いに刺激を受けた後、対戦勃発によりポーランド帰国を余儀なくされながらも翌年、ギリシア神話を題材とした標題詩曲「アレトゥサの泉」「ナルシス」「ドリアデスと牧神」の3曲を神話として発表した。幼馴染でポーランドの名ヴァイオリニスト、また卓越した音楽教師で反られるパウル・コハンスキーの協力を得て作曲され、その神秘的で抒情的な曲想から8曲あるシマノフスキーのヴァイオリン曲の中では最も演奏されることが多い。
「アレトゥサの泉」:河神アルペイオスは、森の精、アレトゥーサに心を寄せていたが、その気のないアレトゥーサは、シチリアに逃げて、そこに湧き出でる泉に姿を変えてしまう。思いを断ち切れないアルペイオスは、海底を流れて島までアレトゥーサを折って行き、思いを遂げた。シマノフスキーは実際にこの伝説の泉を訪れこの曲を作曲した。
「ナルシス」:ナルシストの語源ともなった水の精の子、美青年ナルシスは、言い寄るニンフや乙女たちには目もくれなかった。そのうちの一人、山の精エコーは、憧れを拒絶された復讐からナルシスを自己愛に溺れる青年とさせ、ナルシスは川面に映る自分の姿に恋し憧れて、ついには溺死した後、水仙の花となった。水仙の花がどれも下を向いて咲くのはこの由来と言われている。

- シマノフスキーは日本ではあまり馴染みのない作曲家ですが、ロシアや東ヨーロッパでは好んで演奏されます。ウィーン国立音楽大学での最初の教授がポーランド出身だったため、音大時代私もよくヴァイオリンコンチェルトなどシマノフスキーの曲を演奏しましたが、何しろどの曲も弾きにくいことこの上なく、またピアノと合わせるのも大変難しくて、四苦八苦した苦い想い出があり、モーツァルトやサラサーテなどシンプルで華やかな曲が弾きたいと日頃敬遠していました。先日図書館で、小さいころ大好きだった星座とギリシャ神話の本を偶然手に取った際、やはりとても面白くて、ギリシャ神話をモチーフに、ショパンにも通じるロマンティックさと、ピアノとヴァイオリンが何とも言えない絶妙で幻想的な和声を紡ぐこの作品を年の瀬に奏でてみたく、ミステリアスでドラマティックだけれどどこか人間臭い、神話の世界を表現できたらと思っています。
P.チャイコフスキー なつかしい土地の思い出 Op.42より「瞑想曲」
バレエ音楽「白鳥の湖」「くるみ割り人形」、「悲愴」交響曲など数々の名曲を世に送り出したロシアの大作曲家ピョートル・チャイコフスキー(1840-1893)がほぼ唯一ヴァイオリンとピアノのために作曲した「なつかしい土地の思い出」と名付けられた3曲からなる小品集の第1曲目。もともとは1878年、同じ年に書かれた傑作、ヴァイオリン協奏曲の為に構想されたものだが、協奏曲の緩徐楽章には短すぎる(実際は協奏曲の楽章より長い)という理由から単品として他「スケルツォ」、「メロディー」と共に発表された。1880年にはこの1曲のみ単独で出版され、以来独立した小品として現在でも頻繁に演奏される。憂愁を帯びたメロディーが印象的な、チャイコフスキーらしい作品である。

- この曲も学生時代よく演奏した思い出があり、当時この曲を疲れたような、あきらめた感じで力を抜いて演奏するようにと指示され、たっぷりとした音色が必要で、なかなかに弾くのが大変な曲なのに、力を抜いて演奏なんかできるものか・・とクレームをしたく思っていましたが、第2次大戦後日本軍兵士でシベリア拘留の地、ハバロフスクを訪れた際、その延々と続く広大な大地に雪が果てしなく降り積もっている様と、吹きすさぶ風の音に力を抜くということは、圧倒的な自然、景色を前に自分の力の無力さを感じながらも受け入れ、ともに共存して奏でるということなのだと、ロシア音楽のスケールの大きさは土地の広さ、厳しさと比例すると聞いていたけれど、なるほど百聞は一見にしかずだと納得したことを思い出します。穏やかに四季が移ろい、ささやかな変化を愛でて驚きと喜びを感じる日本で生まれ育った身としては、その圧倒感を感じ取ることは難しいのかもしれませんが、何か壮大なものを前に一人深々と思いを巡らす、そんな時間を奏すことができればと願っています。
C.サン=サーンス 序奏とロンド・カプリチオ―ソ イ短調 Op.28
c.サン=サーンス(1835-1921)はフランスの作曲家。ピアニスト、オルガニスト、文筆家としても名を馳せた他、天文学、数学、絵画、詩にも才能を発揮した。3歳で作曲をして神童と呼ばれ、生涯を通じて輝かしい功績を残し、最高勲章を授与後86歳で国葬をもって見送られたサン=サーンスが、すでに絶大な名声を確立していた。1863年、28歳の時の作品である。同時代のヴァイオリンの鬼才、スペイン出身のP.サラサーテに献呈されたため、スペイン風のリズムが用いられている。サラサーテの手により広くヨーロッパで演奏され、オリジナルはヴァイオリンとオーケストラの曲だが、ビゼーによってピアノ伴奏版が、またドビュッシーにより2台のピアノのための編曲が成されたほど初演当時から人気を博し、今日でも、情熱的で華やかな技巧が映えるヴィルトーゾの名曲として、ヴァイオリニストにとっては欠かせないレパートリーとなっている。
“malinconico=イタリア後で陰鬱にと記載された序奏部分と、そしてカプリツィオーソ=奇想曲風なロンド形式(主題が繰り返される形式)部分からなる。

- やはりフランスの作曲家ベルリオーズはサン=サーンスのことを「彼はあらゆることに精通して、何でも知っており、唯一かけているのは未熟さだけだ」と評していて、要はあまりにもマルチであったため少々性格に難があったということなのですが、結婚に失敗し、二人の子供と最愛の母を亡くした後は犬と従僕を連れて世界中を旅して回り、ロシアではチャイコフスキーと即興でバレエを踊ったとの逸話が残っています。オウムのような鼻を持ち、背が低く、気取った鳥のような歩き方のサン=サーンスと、大柄ながら繊細で猫背であったチャイコフスキーが踊る様子を思い浮かべるとなんだか可笑しく、きっと近寄りがたかっただろう二人の偉大な音楽家が身近に感じられるような気がします。クリスマスが近づくとなぜか弾きたくなるこの曲、ヴァイオリンがヴィルトーゾ楽器と言われるゆえん、きらきらと紙ふぶきが舞うように、音を華やかに響かせ、踊らすことができればと願っています。
文/加納伊都  
Piano 村上明子