Programnote 2016

- - 加納伊都ヴァイオリンリサイタル - -

L.V.ベートーヴェン ヴァイオリン・ソナタ 第5章 ヘ長調 作品24 「春」
第1楽章
 1st Movement : Allegro (快活に早く)
第2楽章 2nd Movement : Adagio molto espressivo (ゆるやかに、表情豊かに)

第3楽章 3rd Movement : Scherzo,Allegro molto(おどけて、とても早く)
第4楽章 4th Movement : Rondo,Allegro ma non troppo
                 (ロンド形式=同じ主題を繰り返す輪舞曲、緩やかに早く)
ドイツで生まれ、作曲家としてその生涯をウィーンで過ごした「楽聖」と呼ばれる大作曲家L.V.ベートーヴェン(1770-1827)が、
31歳の時作曲した、ヴァイオリンとピアノのためのソナタ。20歳半ばより持病であった難聴が悪化、音楽家としての危機に
絶望し自殺を図る1802年の一年前、不安を抱えながらも作曲活動が軌道にのり、音楽家としての名声を確立していた
ベートーヴェン中期の作品である。その明るい曲想から「春」という愛称がつけられ(ベートーヴェンがつけたわけではない)、
2年後に作曲された「クロイチェル・ソナタ」と共にヴァイオリン・ソナタの名曲として知られる。ベートーヴェンは同じような
編成(ソナタ、交響曲など)の曲を2つ同時に着手し、一方は短調で、もう一方を長調の作品と対になっている。またベートー
ヴェンのヴァイオリン・ソナタには珍しく、4楽章形式で作曲されており(他のソナタはほぼ3楽章形式)、全楽章共「春」と名付け
られるにふさわしい、のびやかで牧歌的な音調で構成されている。

−ベートーヴェンが難聴に悩まされていたことは有名ですが、その他にも慢性的な腹痛、下痢に常時悩まされ、幼年時の
父親による暴力のトラウマ、うつ病を抱え、そして極度のアルコール好きゆえに肝硬変を患いその生涯を終えました。死後の
検死によると鉛中毒や先天的梅毒も推測され、多くの臓器に損傷が見られたという病気の宝庫、およそ作曲活動という
クリエイティブな作業ができるとは思われない状態だったそうです。その中で名曲を生み出し続けたことが、ベートーヴェンの
「楽聖」たる所以、常人には計り知れない天才とは先刻承知ながら、腹痛だけでも練習に支障をきたし、痛みに囚われてしまう
自らを省み、在りし日のベートーヴェンに思いを馳せるとき、情熱と圧倒的な存在感を放つ(当時の批評ではベートーヴェン
作品は増長で執拗であると批判を受けたことも多々あったそうです)ベートーヴェンの作品の中で、「春」と呼ばれるこの曲の
明るいきらきらとした旋律が、闇の中に射す光のごとく、ひときわ輝きを増すように思います。
A.ドヴォルジャーク ロマンス ヘ短調 作品11
チェコ出身で後期ロマン派の傑出した作曲家、A.ドヴォルジャーク(1841-1904)が、その才能をロマン派最大の作曲家の一人、
J.ブラームスによって見出され、音楽家としての栄光の一歩を踏み出した1879年、プラハ仮国立劇場管弦楽団のコンサート
マスター、ヨゼフ・マルケルの依頼により作曲した一曲。ヴァイオリンと管弦楽のための単一楽章として作られ、のちにドヴォル
ジャーク自身の手によるピアノ伴奏版が同郷のヴァイオリニスト、フランティシェク・オンドジーチェクに献呈された。元の旋律は
弦楽四重奏第5番より取られている。ドヴォルジャークらしい素材で美しい曲想で、祖国チェコを始め、オーストリア、ドイツで
冬に好んで演奏される。

−ベートーヴェンを始め、多くの作曲家が病気、金銭、キャリア、その性格等で様々にトラブルを抱える中、肉屋の息子に生まれ
ながら、祖国チェコ、オーストリアはもとより、アメリカ、イギリスと世界各国で作曲家としての名声を得、オーストリア(当時チェコ
はオーストリア帝国の一部)より叙勲、貴族の称号を得るなど輝かしい経歴と共に順風満帆な人生を送った、ドヴォルジャーク。
その人生を反映してか、音楽家としてはめずらしい健全で穏やか(ほとんどの作曲家が何らかの精神的疾患を抱えていたという
研究結果が発表されています)フレンドリーな性格で知られていました。
大変な鉄道マニアで、時刻表から運転手の名前まで暗記していたとのこと、また休みの日には鳩の飼育に熱中していたなど、
ボヘミアの素朴な少年を髣髴とさせるエピソードと美しいメロディーの数々を聞くと、音楽は時に素朴で美しく、楽しくて良いのだ
と肩の荷が下りる思いになります。このロマンスはウィーンで良く演奏され、夏が終わり、短い秋が足早に立ち去ろうとする10月
終わりになると、コンサートでこの曲が弾かれ始める、私にとって冬の訪れを告げる一曲です。
F.シューベルト
F.リスト、D.オイストラフ編曲
ワルツ・カプリス 第6番
音楽の都として知られ、多くの音楽家の活躍の場所であった(現在でも)ウィーンでも数少ない、ウィーン生まれの生粋ウィーン人
作曲家F.シューベルト(1797-1828)が10代後半から20代始め、1815年〜1821年にかけてピアノ独奏用に作曲した「12のワルツ、
17のレントラーとエコセーズ作品18」をハンガリーの偉大なるピアニスト、作曲家であるF.リスト(1811-1886)が編曲し、「ウィーンの
夜会」(シューベルトの9つのワルツ・カプリス作品427)と名付けたその第6曲を、ロシアの名ヴァイオリニストD.オイストラフが
ヴァイオリン用にアレンジした一曲。11歳から17歳まで宮廷合唱団(現ウィーン少年合唱団)の一員としても活躍した後、父親の
学校を手伝いながら、その類いまれなる音楽の才能を開花させ始めたシューベルト初期の作品で、家庭的な集まりで演奏できる
よう、ピアノ独奏用に作曲された比較的簡単で平易な舞踏曲を、超絶技巧の天才ピアニストとして知られたリストが、華麗なヴィル
トーゾピースへと変化させ、それを20世紀の屈指のヴァイオリニスト、オイストラフがやはり高度なテクニックを要し、ヴァイオリンが
華やかに歌うカプリス(奇想曲)へと移行させた。

−シューベルトの残した「僕の夢」という寓話的物語の最後に「〜僕はゆっくりとした足どりで、深い敬虔の念と確かな信仰心を
もって、墓標にまなざしを落としながら歩み寄った。僕がそう思いこんでいると、いつのまにか妙なる音に満ちた輪の中にいた。
一瞬のうちに永遠の幸福にみたされているのを感じた。」という一文があります。まさにシューベルトの音楽は、知らずのうちに心を
満たす旋律が幾重にも広がり、穏やかな歓喜へといざなう、自然な美しさに覆われている気がしますj。貧しくとも、シューベルティ
アーデ(シューベルトを囲む友人たちの音楽の夕べ)が開かれ、彼の音楽を愛する仲間と共に、自然に音楽を紡いでいたシューベルト。
シューベルトの音楽を弾くとき、私はいつも、大好きな詩人がシューベルトについて書いた詩の一節
 「空の青さが音楽だ。川の流れが音楽だ。  遺産なし。裁判所はそう公示した。
 静寂が音楽だ。冬の光景が音楽だ。  誰よりたくさんこの世に音楽の悦びを遺して、
 シューベルトにはものみなが音楽だった。  シューベルトが素寒貧で死んだとき」
を思い出します。今回のこの曲はうっとりと旋律に酔う余裕がない難曲ですが(シューベルトのせいではありませんが)、音楽が
至上の悦びであった、小柄でぽっちゃり丸メガネのシューベルトを囲む友人たちのように、楽しんで聴いて頂くことができればと
願っています。
S.プロコフィエフ
ヴァイオリン・ソナタ第1番 作品80
第1楽章 1st Movemen : Andannte assai (歩く速さで、非常に)
第2楽章 2nd Movemen) : Allegro brusco (早く、荒々しく)
第3楽章 3rd Movemen : Andante (歩く速さで)
第4楽章 4th Movemen : Allegrissimo - Andannte assai, come prima
                (快活にごく早く - 歩く速さで、非常に そして初めのように)
ロシアの近代作曲家S.プロコフィエフ(1891-1953)が作曲した2つのヴァイオリン・ソナタの第1曲。第2次世界大戦前の1938年に
着想を得たが、完成は大戦後の1945年となり、1946年、モスクワ音楽院にてオイストラフのヴァイオリン、オボーリンのピアノで
初演された。同世代の作曲家D.ショスタコーヴィチが、帝政ロシア崩壊、革命後もロシアに留まったのに対し、プロコフィエフは
1918年アメリカに亡命、その後20年近くに及ぶアメリカ、パリでの亡命生活後、1936年社会主義国ソヴィエトに帰国、1953年
スターリンと同日、スターリンより3時間前に没した。第1番よりも先に完成したヴァイオリン・ソナタ第2番が、プロコフィエフらしい
抒情的かつ優雅な曲調であるのと対照的に、この第1番はベートーヴェン的な情熱と緊張感溢れる作品となっており、あらゆる
ジャンルに作品を残したプロコフィエフの作品の中でも、重厚で情緒的な傑作として知られる。

−この曲を10代で聴いた時、なんて陰鬱で、ディープな作品化と衝撃を受け、これは大人にならないと弾けない曲、人生様々な
経験を味わった中年を過ぎてから演奏すべきと思い込んでいましたが、最近、大きなコンクールの課題曲に次々と選ばれたことも
あってか、若い学生の演奏を聴く機会が多くあり、様々な要素が含まれていること、多少青臭い演奏でも骨組みがしっかりと支えて
くれるキャパシティーの広い作品であることに勇気を得、あまり豊かでない人生経験をフル活用して、今回演奏することを決意しました。
ロシアに留まりながらも反体制的な作品を生み出したショスタコーヴィチと比べて、亡命をしながらも国外での芳しくない音楽活動に
倦んで、ロシアに戻ったともいわれ、体制的作曲家と批判されることもあるプロコフィエフですが、彼の生まれ故郷ウクライナに滞在
した際、独特に吹き荒れるけれども不快でない風の音に、プロコフィエフの情熱と憂鬱、曲中不思議に流れる美しくメランコリックな
旋律の秘密があるように感じました。1楽章、そして終楽章の最後に流れる旋律は、墓場に流れるそよ風のようにという作曲者自身の
指示が書かれています。広大に厳しく広がる来たの大地の音楽、四季に彩られ快適な生活を送る私たちには、理解困難な感覚が
あるのだろうと思いながらも、どんな場所どんな時でも空気は無限に流れていく、そんな余韻が感じられる演奏にできればと思って
います。
P.サラサーテ カルメン幻想曲 作品25
序奏 Introduction - Allegro moderato (ほどよく快速に)
Moderato (ほどよいテンポで)
Lento assai (緩やかに、非常に)
Moderato (ほどよいテンポで)           
オペラに詳しくなくても、クラシックに疎くても一度は耳にしたことのあるG.ビゼーのオペラ「カルメン」の曲の数々。その中から19世紀の
最も優れたヴァイオリニストの一人、スペイン出身のP.サラサーテが旋律を選りすぐり、1833年に作曲した一曲。パラフレーズと呼ばれる、
元の旋律を別のスタイルに変更し用いる手法が取られており、その音の輝かしさに比類がなかったと評される名手サラサーテならでは
の、ヴァイオリンが華やかに歌い、鳴り響く演奏会用ヴィルトーゾピースである。序奏と4つの部分からなる。
オペラ「カルメン」のあらすじは、スペインの町セビリヤを舞台に、ジプシーの女、カルメンが婚約者のいる生真面目な青年と、闘牛士の
間で恋を繰り広げ、恋に狂う青年に殺されてしまうという悲劇。

−序奏 Allegro moderato : オペラの第4幕への間奏曲「アラゴネーズ」(スペイン、アラゴン地方の踊り)を素材として使っている。

1)Moderato : オペラ第1幕でカルメンが歌う「ハバネラ」(スペインで親しまれ広まったキューバの民族舞曲形式)のメロディーが奏でられる。
2)Lento assai : 第1幕でカルメンが歌う鼻歌「トゥ・ラララ」のメロディーが使われている。
3)Allegro moderato : 第1幕でカルメンが歌う「セギディーリャ」(スペイン南部、アンダルシア地方の民族舞踊)の旋律が素材となっている。
4)Moderato : オペラ第2幕冒頭の「ジプシーの歌」をベースに使用。

−先日関節の運動性(伸縮性)が名演奏家の条件となりうるという研究論文を目にしました。確かに悪魔の化身と疑われたほどのテクニック
を誇った、イタリアの天才ヴァイオリニスト、パガニーニは、関節過伸展(結合組織の遺伝的異常により、関節が異常に曲がる症状)であった
と言われています。また研究によると、関節がよく伸展する人の方が、演奏活動にあたり、関節炎や腫脹の症状が見られないとのことです。
私はとても手が小さいので、よくそんな小さい手で楽器が弾けるわねと驚かれるのですが、有難いことに、よく関節が延びる(広がる)ので、
演奏に困難を感じたことはありませんし、演奏家の宿命とも言われる腱鞘炎に悩まされることもありません。この曲を作った偉大なる
大ヴァイオリニスト、サラサーテも手がとても小さかったそうですが、あらゆる技巧に非の打ち所がなく、高音にいたるまで完璧な音程だった
そうです。どんな難曲でもその端正な表情を崩さず、完備で清澄な音色で人々を魅了したというサラサーテ(そして20歳の時の失恋から生涯
独身を貫いたというロマンチスト)に、遠く及ばずとも、せめて同じく小さな手の持ち主として、カルメンの情熱を拝借し、クリスマスを彩る演奏が
できればと願っています。
文/加納伊都  
Piano 松尾久美